【対面講義】“空有の論争”とは何か 日本編 in京都
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概要
7世紀後半にインドを旅した義浄『南海寄帰内法伝』によれば、インドの大乗仏教には「中観」と「瑜伽」という二つの学派があったという。前者は、ナーガールジュナ(龍樹、2〜3世紀)の『根本中頌(中論)』で確立された空の理論を重視する学派であり、6世紀頃に活躍しバーヴィヴェーカ(清弁)が「中観派」を自称するようになる。一方後者は、「ヨーガを実践する人々」(ヨーガチャーラ)とよばれた人々が、空の理論や経量部の学説などを取り入れ、アーラヤ識説や三性説をはじめとする理論体系を構築した学派である。瑜伽行派、瑜伽行唯識派などと言われている。
両派のあいだでは、空の理解について違いがあったため、「有空諍論」「空有の論争」「無と有との対論」などとよばれる論争があったと言われている。実際、両派の著作には、お互いを批判するような言説が見られる。しかし、玄奘の『大唐西域記』などでは、論争がなかったかのような記事も見られる。玄奘の弟子たちの著作のなかでは、バーヴィヴェーカを強く批判する者がいる一方、両者のあいだには論争はなかった、という者もおり、様々な議論が展開された。
日本に仏教が伝わり、奈良時代になると、ナーガールジュナの著作にもとづく三論宗と、瑜伽行唯識派の流れをくむ法相宗のあいだで様々な対立が起きた。中国ではじまった三論宗においてバーヴィヴェーカの著作が研究されることはなかったが、日本の三論宗はバーヴィヴェーカの著作を自宗のものとして受け入れ、法相宗とのあいだでインド以来の議論を繰り返すような論争が行われた。
本講義では、インドから日本に至る「空有の論争」について、その連続性と断絶とを意識しながら、解説したい。
- インド〜中国・朝鮮半島編(8月14日)
- 日本編(8月28日)
講師
師 茂樹
参考文献
- 山口益『佛教における無と有との對論』(修訂版、山喜房佛書林、1964年)
- 江島恵教『中観思想の展開: Bhāvaviveka研究』(春秋社、1980年)
- 師茂樹『論理と歴史:東アジア仏教論理学の形成と展開』(ナカニシヤ出版、2015年)
- 書評チャンネルでも紹介しています(前編[無料]、後編[有料会員のみ])
「生成と多重視点の仏教学」とは
このシリーズ講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教(および東アジア仏教)の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
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