古谷利裕 連続講座 第2回 「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する in東京
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古谷利裕 連続講座 第2回 「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する
2024/3/23(土) 17:00~2024/3/23(土) 21:00
芸術に、単なる「社会批評」にとどまらない
(生を構成する「経験」としての)
意味があるのだと主張するならば、
それはどのようにして可能なのか。
古谷利裕 連続講座
「未だ充分に尽くされていない「近代絵画」の可能性について(おさらいとみらい)」
「近代絵画」と呼ばれるものが果たして何を試み、どのような問いを設定し、検討し、達成してきたのか。その蓄積を、美術に関心を持つ人々はもちろん、アニメや小説など表現全般に興味を持つ人々にまで広く「使える」ようにしていく必要があるのではないか。
そうした危機感のもと、画家・評論家の古谷利裕が具体的に作品に即し、マニアックに、それでいてジャンルや歴史に閉じずこれからの制作に開けたかたちで語る、連続トークイベントです。
第2回は、コーリン・ロウとロバート・スラツキイが提唱した〈虚/実の透明性〉という概念をキーとして、小説、演劇、映画など、多様なジャンルの作品に切り込みます。
本企画は、古谷利裕の活動に強い影響を受けてきた、制作集団・出版版元「いぬのせなか座」と劇団「Dr. Holiday Laboratory」が共催します。
また、今回の講座と関連して、2024年4月に古谷利裕の初小説集を刊行、6月には8年ぶりとなる個展も開催いたします。
(詳細は、公式webサイトをご覧ください)
第2回
「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する
イベント概要
日時
2024年3月23日(土)
17:00〜20:00
会場
RYOZAN PARK 巣鴨(豊島区巣鴨1-9-1 グランド東邦ビルB1)
チケット
現地観覧+アーカイブ動画チケット:2,500円
*当日券はお席に余裕のある場合のみ販売いたします。詳細は公式webサイトをご覧ください。
*こちらは、当日ご来場いただける方専用のチケットとなります。アーカイブ動画のみをご希望の方は、こちらからご購入ください。
*アーカイブ動画の販売は、イベント終了後1ヶ月をめどに公開を予定しております。公開次第、ご購入の際にご登録いただくメールアドレス宛に動画視聴ページのURLをお送りいたします。
*お客様都合によるチケットの払い戻しは原則致しません。日時、場所等を今一度ご確認の上、ご予約ください。
共催
いぬのせなか座+Dr. Holiday Laboratory
イントロダクション
虚の透明性・実の透明性という概念を提示した、コーリン・ロウとロバート・スラツキイによる近代建築にかんする有名な論文「透明性―虚と実」は、具体的な作品の分析部分を除けば意外なくらい平明だ。その論旨は、論中で引用されるジョージ・ケペシュによる「透明性」という語の定義によってほぼ要約されると思われる。
二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性を想定しなければならない。像には透明性が附与されるのである。すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。(ジョージ・ケペシュ「視覚の言語」)
言っていることはわかる。しかしそれは具体的にどのような状態、感覚のことなのだろうか。論文では続いて、透明性のあり方として実と虚の二種類があること、つまり「虚の透明性」があり得ることを示すための導入として、モホリ-ナギが、透明性についてジェイムス・ジョイスの「多重言語膠着」を例に説明していることを紹介している。ただし、「多重言語膠着」という語はモホリ-ナギの造語なので検索しても引っかからない。ここではそれについて『存在論的、郵便的』(東浩紀)を引用しつつみてみたい。東は、ジョイスが『フィネガンズ・ウェイク』に書き込んだ「he war」という一文に注目するデリダについて、次のように書いている。
「war」は英語とドイツ語に同時に属する。デリダはこの二重所属を問題とする。この例で注目すべきはまず、その二重所属が綴り字、すなわち w-a-r というエクリチュール(書かれたもの)の連鎖によってのみ可能になっていることである。実際にそれを発音しようとすれば、私たちは[wˈɔːr](英語)あるいは[vaːr](ドイツ語)としてその所属を定めざるをえない。『グラマトロジーについて』で「音声中心主義」と呼ばれた構造、つまりエクリチュール(文字)からパロール(音声)への変換が引き起こす抑圧が、ここではきわめて分かりやすい例で示されている。パロールは二重所属を消去する。(東浩紀『存在論的、郵便的』第一章 幽霊に憑かれた哲学)
ある文が多様に解釈可能だという意味の「多義性」とは異なる「多数性(二重所属)」を可能にするエクリチュールという概念がここでは問題となっている。「he war」という文-文字(図)には、(声-意味にすると消えてしまう)相入れない二種類の背景(地)が存在する(英語/ドイツ語)。つまり「he war」という文-文字が開くのは、意味の(解釈の)多数性ではなく、背景(時空・意味の場)の多数性なのだ。デリダにおいては一つのエクリチュールが、ケペシュにおいては二つの像が例に挙げられているが、どちらも問題になっているのは、意味や形そのものというより、それが現れる出る母体となる背景(地)の分裂/多数性だ。
ある文なりイメージなりが提示されることで、複数の相入れない背景が想定される時、それを受け取る者は、自分の「知覚する行為」でその矛盾を統合することが求められる。そこで「経験する主体」によって半ば強いられて生み出される多次元的知覚(多次元的時空)のことを「透明性」と呼ぶ。このような、(1)地の多数性→主体による統合性→時空の透明性の出現、という流れを透明性の第一段階と考える。しかしここで、多重化された地を統合する主体による働きかけは、必ずしも成功するとは限らない。あるいは、成功したとして、多重的地の統合という高い負荷を要求されている知覚する主体は、その負荷により常に自己の分裂と裏腹の、きわきわの状態にあるはずだ。つまり、透明性の第一段階には、その裏地として、(2)地の多数性→主体による統合性→主体の分裂、というもう一つの側面が付随している。コーリン・ロウとロバート・スラツキイの主張する「透明性」とは、実は透明性の第一段階(多次元的知覚)と第二段階(主体の分裂)という、相入れないはずの二つの状態が拮抗しながらも、振動し交代し合っているという、透明性の第三段階のことを指すのではないかと私は考える。
「多次元的知覚(一つの主体)」と「主体の分裂」とが拮抗し、相互が、明滅したり、振動したりするように入れ替わるという透明性の第三段階があるとして、さらにその先の段階として、多次元的知覚(統合)と主体の分裂とが共存可能であるような「一でもあり多でもあるわたし」、あるいは、そのような「わたし」が存立可能であるような時空の出現というものを、透明性の第四段階として考えることができるのではないか。今回の主題となっている「魔改造」された透明性とは、このような透明性の第四段階のことが想定されている。そして、透明性の第四段階は、近代というよりも現代の芸術の問題になる。
(ただしこれは分人主義のようなものとは違う。役割的、キャラクター的なわたしの分裂・多数性のことではなく「存在としてのわたし」という「一」が分裂することが問題となる。分人主義は「意味の多義性」の範疇だろう。)
「透明性―虚と実」は建築にかんする論文だが、「虚の透明性/実の透明性」という概念は、建築に限らず近代芸術全般に見出せる重要な特徴だと考えられる。さらに、近代だけではなく、(魔改造することで)現在の、美術や建築に限らない多様な作品について考えるときに、いまなお有効な概念となるはずだ。前回は、ピカソとマティスを中心に、近代絵画についてマニアックに掘っていく内容だったが、今回は「虚の透明性/実の透明性」という概念を再検討し、拡張させつつ、映画や演劇、小説なども含めた、現在のさまざまなジャンルの作品についても考えていくことになるだろう。
連続講座 今後の予定
特別講義 マイケル・フリードとグレアム・ハーマン(仮)(ゲスト:大岩雄典)
2024年4月13日(土)17〜20時
第3回 アラカワ+ギンズを通して観る「近代絵画」(仮)
2024年5月11日(土)17〜20時
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チケット情報
このチケットは主催者が発行・販売します
現地観覧(アーカイブ動画付き)チケット
2,500円
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